ある元三重大学生のブログ: (感想)中外時評--日経新聞--

2012年9月16日日曜日

(感想)中外時評--日経新聞--

本日付日本経済新聞朝刊の「中外時評 大学入試は変われるか」は、大学入試の抜本改革を支持する内容となっています。

※以下『』内は、同記事(2012年9月16日付日本経済新聞朝刊 10面 中外時評『大学入試は変われるか 「79年体制」からの脱却を』)からの引用部分
 「・・・」は中略を示す。

一部エリート大学の入試を対象に論じているのであれば、筆者は特にこの考えに反対ではないのですが、大学入試全般となると気になる点があります。いくつか気になった点を書いてみます。

まず、かつての大学入試で『各大学は1次試験でいきなり難問奇問を出す傾向が強まっていた』ために共通1次・センター試験が設けられ、基礎学力を見極める制度を目指したものの、『かつての設計者たちの思惑はことごとく外れた』としています。

しかし、これは言い過ぎです。センター試験は弱点はあるにせよ、基礎学力を判定する良問を一定程度作成できていると私は考えていますし、基礎学力を見極める目的も果たせていると思います。

また、センター試験を『運営上のトラブルも絶えることがない』としていますが、これだけ大きな試験にしてはトラブルは少ないほうではないでしょうか。むしろ、この記事が主張している後述の新しい入試制度では、現在よりもトラブルは増加する可能性が高いと考えます。

同記事後半では、『手間と時間をかけて志願者の学力や適正を見極める選考・・・への大転換を、どう進めていくべきか』としています。

もちろん、そのような選考ができれば最善でしょうが、入学試験の平等性などを考えるとこのような入試を主流にするには、課題が多すぎるように思われます。

米国などでは、適正を見極めるために、高校の成績なども大学入試の重要な基準となっていると聞いたことがありますが、これは、高校生活が常に入試であることを意味します。

例えば、定期試験も大学入試の一部と化してしまうと考えられるのではないでしょうか。

同記事最終部分では、『東日本大震災のさなかの多くの場面で・・・高偏差値人間のひ弱さが浮き彫りになった。一方で強みを見せたのは、臨機応変の判断力や犠牲的精神をもつ名もなき人々だ。・・・そうした国民的実感も、大学入試の抜本的改革を迫っている。』との記述があります。

正直なところ、ここまでの人間を選抜することを大学入試に求めるのも酷だと思います。
確かに、高級官僚や政治家などを多く輩出する東京大学などでは、「臨機応変の判断力」を持った人材を入試で選考できればいいのですが、現実には不可能です。
それは、就職試験で有能な人間ばかりを採用するのが不可能なのと同様です。

私は、センター試験を大学入学の資格試験にして、複数回実施するといった改革には賛成です。しかし、この記事の主張するより高度な入試制度はかなり困難だと思われます。
実現できるのは、国立では、旧帝大くらいのものでしょう。

さらに、受験生の負担も増すばかりです。センター試験の基礎学力を身に付け、さらに、高度な能力(あるいはそれを獲得できる能力)まで試されます。「臨機応変の判断力」を一体どう見極めるのでしょうか。

確かに、知識ばかりに偏った入試も問題ですが、ある程度これを是正するような制度を導入していくのが現実的だと考えます。

例えば、筆記試験に加えて面接を行うという方法が考えられます。
面接といっても、高度な能力を見るというよりは、筆記試験の補助的な位置づけで、受験者の最低限の「やる気」を見る程度のものです。
配点比率で言うと、筆記:面接=8:2くらいでしょうか。
(ただし、旧帝大では、面接の配点を高くしたり、面接内容の高度化を図ってもよいでしょう。)

その程度の面接でも、受験生が高校時代から「大学で学ぶ」ことを意識する大きなきっかけになり、大学生の質向上に貢献できるはずです。

大学の教職員が「臨機応変の判断力」を持った学生を選抜するのは、容易ではありません。ましてや、地方大学・私立大学では尚更でしょう。
それならば、「受験生の意識を高める」方が得策ではないでしょうか。

まじめに努力した人間が報われる傾向が大きい知識型入試と、適切な面接の組み合わせが現行では最適な大学入試制度だと考えます。

結論としては、旧帝大など一部の大学では、より高度な入試を導入。残りの地方大学・私立大学では、知識型入試を維持しつつ簡易な面接を導入。というのが将来の大学入試のあり方だと考えます。





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